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極楽地獄 1

2011/12/09 Fri 00:29

前回(12月5日)の記事が、結果的にまえがきのようなものになったので、
この記事の前にそっちを読んでもらえると、唐突感出し抜け感とかは減ると思います。
これから何回かの連載になる予定です。

9015074.jpg


ひとは死んだらどうなるのか?
そんなことを考えてみました。

僕が死んだら、やっぱり閻魔大王の裁きを受けます。そして仮に極楽へ送られたなら━━。
そこはどんな場所でしょうか?

僕が行く時期、極楽はちょうど春真っ盛りなのです。
入口から極楽を眺めると、二・三〇〇メートルくらい先に桜の木が見えます。幹の太い古木が極楽いっぱいに枝を広げ、そこに花をつけている。枝の先から真っ白な地面へ向かって花びらがくるくると舞っている。それ以外は何もありません。
なんて立派な木だろう。満開の花の美しさが目に染みる。

極楽とは一本の桜の木だったんだ!

そこで唐突にひとつの疑問が胸に満ちてきます。私はいったい誰だったかしらん? 
僕は、人は、日本人は死して閻魔様の裁きを受け極楽の入口に立つと、この疑問を胸に抱きます。誰もが閻魔様の執務室までは憶えている。しかし極楽へ来てみると自分が何者なのか、男か女か、歳はいくつなのか、そういうことが何一つ思い出せなくなるのです。
死ぬ前の記憶もなくします。しかしひとつだけ、生前日本人であったということだけは憶えているのです。
なぜそれだけは憶えているのか? それ以外のことはなぜ急にすべて忘れてしまったのか? どうして何も思い出せないのか? 
「僕」が何者か分からなくなり、「私」となって己の存在について感じる無数の疑問。
でも、まあいいか。極楽は春で、桜が満開なのだから。
とかなんとか言います。

さて、その大桜の下では人々がお花見をしているのが確認できます。とてもきれいに咲いているだから、誰だって花見客になってしまうというもの。
「私」となった僕は何もない真っ白な上り坂を進んで近づいて行きます。
なぜ近づくのかと聞かれたら、自分でもその理由は分からないのです。
あそこへ行ってみようと思ったというほど心が動いたわけでもない。他人に操られるように足を動かしていた、といった具合です。しかしとにかく「私」はゆるい坂を登ってみます。

人は死んだらどうなるのか? それは人それぞれ。でも日本人の多くは大体同じような死後の世界を経験します。
まず、死人としてものごころがついてはじめに目にするものは、行列に並ぶ人の後ろ姿です。
人は死んで目が覚めると行列の最後尾に立っているのです。その列はもちろん閻魔様の執務室へ続いています。
そして閻魔様にお目通り。現世に伝えられる彼の姿は、前世の記憶を持った人やあの世に行ったことのある人が語ったもので、それはとても正確で、そのとてつもない大きさと恐ろしい顔に誰もが縮み上がってしまいます。

そこで現世でのおこないについての質疑応答などがあると覚悟してみるけれど、実際にはありません。閻魔大王は地割れか落雷のような声で死者の名を呼び、行き先を申し渡す。僕はそこで極楽行きを命じられた、ということにしておきます。

極楽には桜の周りを囲うように赤い毛氈が敷かれています。そこにいくつも並ぶ大皿はまるで大輪の花のようです。巨大な舟盛りの大艦隊が一列縦隊。広げられたお重。懸盤の列。
そしてそれを挟むように向かい合って「私」の先輩となる極楽の住人たちが座っています。
死人たちは皆ふっくらとして血色も良く、アルコールの入った者も多いようなのです。
とても幸せそう。確かに極楽だ。
目の前がちょうど一人分空いているので、そこに落ち着きます。
なぜ座ったのかと問われれば、「私」はここでもまた他人に操られるように、としか答えられません。

誰かに操られている人は、そのことに気づかずに全て自分で決めていると思うものなのかもしれません。極楽に行った「私」もそんなことを思うでしょう。しかし実際に操られていたわけではない、まるで操られるかのように何も考えずに座ってしまった、と考えるのです。

僕の頭の中に、極楽の住人を操る超越者は今のところ見当たりません。

つづく

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